六ヶ所の歴史

六ヶ所村の縄文遺跡

>六ヶ所村

六ヶ所村の位置は、青森県の北東部、下北半島の付け根にあって東側は太平洋に面しています。村の地形を概観すると、南半分は内沼・田面木沼・市柳沼・鷹架沼・尾駮沼と、小川原湖で形成された大小の海跡(かいせき)湖沼がならんでいることが特色となっています。これらの湖沼群は、縄文海進期に海であったことが推測されます。

青森県の一躍を担う六ヶ所村の縄文時代は、草創期(約12,000年前)から晩 期(約3,000~2,300年前)まで各時期とも満遍なく遺跡や遺物があり、発掘調査されています。そのようなことは県内でも特異な存在であり、またこのことからも六ヶ所村は、縄文文化の宝庫であったといっても過言ではありません。

赤漆彩色切断壷形土器

昭和40年代に入って、我が国の経済が著しく発展し、本県においても、むつ小川原開発などの大規模開発が進められた結果、開発の中心地である上北郡六ヶ所村で多くの遺跡が発見され、その保護と保存に関心がもたれるようになりました。

赤漆彩色切断壷形土器昭和48年には、県教育委員会に文化課が設置され、昭和55年には県埋蔵文化財調査センターが設置され、これらの機関によって発掘調査が行われ、埋蔵文化財の保存と活用が進められています。

特に、尾駮沼・鷹架沼周辺の表館遺跡出土(草創期12,000年前)の隆起線文土器、富ノ沢(2)遺跡出土(中期約5,000年~4,000年前)の竪穴式住居450軒、平成7年に出土した198点が国の重要文化財に指定されました。大石平遺跡(後期約4,000年~3,000年前)は赤漆彩色切断壷形土器が有名です。富ノ沢(2)遺跡は三内丸山遺跡と同様に大規模な縄文集落として、全国でも注目されています。

遺跡の発掘年表

昭和44年新全国総合開発計画が閣議決定される。
昭和46年むつ小川原地域開発構想の概要が発表されることになる。これに対応するため、県教育委員会は六ヶ所村の遺跡分布試掘調査を実施、65カ所の遺跡が明らかになる。
昭和47年表館(おもてだて)、発茶沢(はっちゃさわ)、弥栄平(いやさかだいら)の3遺跡の試掘調査が行われる。
昭和48年県教育委員会に文化課が設置され、埋蔵文化財班が発掘調査事業を担当。市街地A住区(開発で移転を余儀なくされる人々の住む区域)、B住区(工場・港湾などに就業する人が居住する区域)の造成が計画され、千歳・睦栄の遺跡分布調査が行われる。
昭和49年睦栄・発茶沢・大石平・富ノ沢の試掘調査で、六ヶ所村の遺跡は117カ所になる。
昭和50年幸畑・弥栄平・新納屋・千歳の試掘調査が行われ、開発に直接関わる遺跡は47カ所になる。
昭和51年幸畑の試掘調査が行われる。
昭和52年表館・幸畑・室ノ久保・新納屋・弥栄平・睦栄などの発掘、試掘調査が行われる。
昭和53年家の前・発茶沢・表館の発掘、試掘調査が行われる。
昭和54年新納屋・表館・発茶沢・鷹架遺跡の発掘、試掘調査が行われる。

六ヶ所歴史探索マップ

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六ヶ所歴史探索マップ

1貴宝山神社(六ヶ所村泊字村ノ内)
2a中山崎大砲場跡(六ヶ所村泊字焼山)
2b遠見番所跡(六ヶ所村泊字焼山)
3大穴-どうくつ
4大乗寺といちいの木(六ヶ所村泊字村ノ内)
5諏訪神社(六ヶ所村泊字村ノ内)
6稲荷神社(六ヶ所村泊字村ノ内)
7泊のまる木舟
8高磯崎大砲場跡(六ヶ所村泊字南川)
9屋萩神社
10沼ニシン漁
11一里塚(六ヶ所村平沼字道ノ下/久保)
12平沼大砲場跡(六ヶ所村平沼字道ノ下)
13熊野神社(六ヶ所村平沼字追館)
14平安寺(六ヶ所村平沼字道ノ下)
15常照寺(六ヶ所村倉内字道ノ上)
16安倍館(六ヶ所村倉内字道ノ下)
17いっこう供養塔(六ヶ所村倉内字前谷地)
18内沼蝦夷館(六ヶ所村)
19熊野玉串神社(六ヶ所村倉内字石神)
20中志蝦夷館
21マデ漁法
22千歳のしなの木
2b
千歳のしなの木
樹齢は約110年で、当村では大木です。樹皮のじん皮繊維が強く、布を織り、船舶用ロープ、手綱、腰みのなどの一部に用いられました。
マデ漁法
マデ漁法
昔、沼の真中にウグイをとる小屋がありました。それを一説にはマデといいました。魚がとれるのを待っているのでマデといいいます。沼の深い所と沼へ流入している川口の浅所の境の付近に芝垣をはってつくります。
中志蝦夷館
中志蝦夷館
小川原湖最北西岸、中志小中学校背後の丘隆先端部山林内に位置します。北・東・南側の三方は急崖であり、西方は地続きとなっています。
熊野玉串神社(六ヶ所村倉内字石神)
熊野玉串神社(六ヶ所村倉内字石神)
倉内集落の西端、小川原湖を見渡す断崖の上に位置し、古杉木立に囲まれています。創設年代は不明でありますが、境内には安政4年(1857)9月の銘ある唐獅子一対が残されています。明治40年頃、唐貝地から遷座。平沼の熊野神社から分社したと伝えられています(倉内郷土史)。
内沼蝦夷館(六ヶ所村)
内沼蝦夷館(六ヶ所村)
西方から内沼に突き出た尾根先端に位置します。この尾根先端部は東西約400m、南北約100m位の長楕円形を呈しています。北・東・南側の三方は沼からの比高差約40mの自然の急崖となり、一方西方地続きの部分は1人がやっと通れる程度の狭い屋根です。まさしく自然の要塞といえます。
いっこう供養塔(六ヶ所村倉内字前谷地)
いっこう供養塔(六ヶ所村倉内字前谷地)
慶応2年(1866)3月10日建立の墓石。いっこうと称する者がこの地に渡り住み、マデ漁法を伝えたり、対岸(五戸領)との物資交易を指導する等生活安定に寄与し、村人達から漁業の神として崇敬されたといいます。彼の死後、村人は「いっこう大明神」として祭り、世話人西館長之助、田中伍兵衛、木村喜助、橋本喜代松、高村孫助が連名の供養塔を建てました(倉内郷土史)。
安倍館(六ヶ所村倉内字道ノ下)
安倍館(六ヶ所村倉内字道ノ下)
倉内集落の東端に位置します。東・南は自然の急崖を利用し、西・北の二方には幅8~9メートル、深さ2メートルの堀跡があります。規模は100×70メートル。南側は国道338号線に接しています。城主は安倍貞任で、対岸の八幡館の源義家軍と戦ったとの伝説が残されています(倉内郷土史)。
常照寺(六ヶ所村倉内字道ノ上)
常照寺(六ヶ所村倉内字道ノ上)
東光山と号し浄土宗。蒼仲庵といいました。泊の大乗寺の末寺。昭和30年、火事のため、集落中央から北端に再建されました。創建、住職、由来等不明。寛政11年(1799)・文政6年(1823)の墓碑が残っています。
平安寺(六ヶ所村平沼字道ノ下)
平安寺(六ヶ所村平沼字道ノ下)
西方山と号し浄土宗。泊の大乗寺の末庵。「無陀庵」が前身。享保元年(1716)覚了開山(『新撰陸奥国誌』)。元文4年(1739)の銘のある墓石と、宝暦12年(1762)9月の三界万霊碑があります。
熊野神社(六ヶ所村平沼字追館)
熊野神社(六ヶ所村平沼字追館)
宝暦7年(1757)創建。旧村社。願主、次郎衛門・喜助(棟札)。祭神は橡樟日命。祭日4月1日。村内に分社をもつ。
平沼大砲場跡(六ヶ所村平沼字道ノ下)
平沼大砲場跡(六ヶ所村平沼字道ノ下)
高さ10メートル、幅50×30メートル。2ヶ所の高台が残存します。
一里塚(六ヶ所村平沼字道ノ下/久保)
一里塚(六ヶ所村平沼字道ノ下/久保)
市柳の"二ツ盛"といわれ現在1基のみ現存。形状ははっきりしません。東側1基では高さ3メートル、幅6メートルの半円形。通称"二ツ盛"。西側1基は消滅。
沼ニシン漁
沼ニシン漁
沼ニシンが取れるのは六ヶ所を含めて、全国で2ヶ所しかありません。
屋萩神社
屋萩神社
1700年頃、貴宝山を創建した広貞が私財を投じて建てたといわれます。
高磯崎大砲場跡(六ヶ所村泊字南川)
高磯崎大砲場跡(六ヶ所村泊字南川)
高さ4メートル、幅40×50メートルの台場を中心に、大小5ヶ所の小丘を配し、松林におおわれています。
泊のまる木舟
泊のまる木舟
重要民俗資料。一木づくり1人乗りの典型的なもの。
稲荷神社(六ヶ所村泊字村ノ内)
稲荷神社(六ヶ所村泊字村ノ内)
諏訪神社(六ヶ所村泊字村ノ内)
諏訪神社(六ヶ所村泊字村ノ内)
祭神は建御名方神。明治6年(1873)郷社となりました。幕末の絵図類に「スワ神社」とあります。
大乗寺といちいの木(六ヶ所村泊字村ノ内)
大乗寺といちいの木(六ヶ所村泊字村ノ内)
天正11年(1583)創建。東海山と号す。盛岡の大泉寺の末寺。浄土宗。開山は覚道。本尊は阿弥陀如来。観音堂。地蔵堂を有し(『新撰陸奥国誌』)、近くに『をぶちのまき』に出てくる御所の宮があります。
いちい・・・泊、天然記念物(樹木)樹齢約300年といわれます。
大穴-どうくつ
大穴-どうくつ
その昔、放牧の牛が岩屋の中に入り(冬の寒いとき)はるばる進んで横浜まではい出したといわれます。この大穴に牛が集まるので、別名牛の谷とも呼ばれています。
遠見番所跡(六ヶ所村泊字焼山)
遠見番所跡(六ヶ所村泊字焼山)
正保・元禄の国絵図にありますが、寛政5年(1793)には泊村上町六助家へ移転しています(『郷村古実見聞記』)。御分国海辺全図(盛岡市中央公民館蔵)物見御番所の位置にあたります。
中山崎大砲場跡(六ヶ所村泊字焼山)
中山崎大砲場跡(六ヶ所村泊字焼山)
北郡泊村中山崎砲台場測量図によると、旧台場3ヶ所、建直台場2ヶ所が記されています。現在幅2メートル、高さ0.5メートル、長さ30メートルの土手が現存しています。
貴宝山神社(六ヶ所村泊字村ノ内)
貴宝山神社(六ヶ所村泊字村ノ内)
寛文4年(1664)創建。例祭は旧暦6月20日。創建者は佐藤広貞。伊勢の回船問屋から大乗寺の一誉上人に師事し、私財を投じ建立。宝永7年(1710)奥の院(当神社より山手1キロメートル)で死去したといいます(貴宝山由来記)。